Tuesday, March 27, 2007

瑣末

目の前にある現実が、ほとんど実態のない物に思えて不安になる。まだ、不安になる。それは例えば、ハレーションを起こす程とても天気のいい午後、カフェで誰かとコーヒーを飲んでいるとき等に突然訪れる。
それを始めて感じたのは子供の頃、庭に面したテラスで母に作ってもらったミルクセーキを飲んでいたとき。夏の暑さの中にグラスに付いた水滴が綺麗だなと思いながら、甘ったるくて冷たい飲み物を飲んでいた。逃げ水が見えた。この幸せな空間と、母の優しい声と、弟の間抜けな水泳パンツと、全てが愛おしく私の為だけにその世界が作られている様で、いつまでも続く私のその世界には輝きと特別しか存在しないがごとく煌めいていた。その日、私は午前中、庭のプールで泳いだ後で、ちょっぴりけだるく心地よい疲れを抱えていた。見るでもなしに目の前に広がるあるがままを見ていると、ノイズが走ってその画像がぶれた気がした。その瞬間、目の前に展開されているムセカエルような緑も、嘘みたいな空も、反射してよく見えない水面も、庭の木々の奥深い所に見え隠れする闇も、すべてが私を嘲笑っているように見えた。なんだろう?この感覚。そう思った瞬間、綺麗だったグラスの水滴は流れ落ちて水の線になり、グラスとテラスの板の所でただの迷惑な水たまりになって、持ち上げたら大好きなスカートの上にシミを作った。心地よかったはずの庭に面したテラスは、汗の嫌いな私に容赦なく風を運ぶのを止めた。そのとき思った。現実を認識しようとした私が、目の前の現実を疑ったから、仕返しされたんだと。気付いちゃいけない事に気付いたから、私のとっておきの時間が邪魔されたんだと。
記憶と思い出の違いがはっきり解る。私はこの鮮明なモノを記憶だと思いたい。思い出は都合のいい事ばかり思い出す。それがいい事でも悪い事でも。私は思い出をたどる事が好きなんじゃない。自分として個を認識した時からの記憶を探るのが好きなんだ。感情に左右されない記憶。私が生まれて4年目の夏の記憶だ。
その後、父がテラスに現れ、「僕にもミルクセーキをくれる?」と言いながら、私の髪を梳かしてくれた。その瞬間、また、水滴の綺麗なグラスが目の前に現実として現れて、私の世界に光が戻った。その時から、目の前の現実というものを信用しなくなった。全ては私の記憶と呼ばれる電気信号の狭間で起こっている事なんだと。それが、幾千の光になって存在しているだけなんだと。だから、母が亡くなっても何も変わりはしないんだと。だから、私は目の前の瑣末な現実とやらに左右されなくなった。こっそりほくそ笑みながら。