思考って<初めて>はどこなのだろうと考えてみた。
自分とは違う他の人間から何らかの違和感を覚えた時なのか、一人遊びをしている時の妄想なのか。それとも、人間ではない物、例えば、空やベビーベッドにぶら下げられたタオル地のぬいぐるみなのか。その他にも、生まれた病院の消毒液や看護婦さんの匂い。お母さんのおっぱいの触感はちょっと早いかな。
初めてキラキラを感じたときを覚えている。突然、いろんな人工的な音が沢山聞こえて、目を開けてられないくらいキラキラしてて、体の周りに何もなくなってものすごく広い空間にぽっかり浮かんでいる様な感じ。不安。だから泣くのかな。その時間はすごく長く感じたけど、すぐに温かな何かに包まれて安心して今までの事を全て忘れた瞬間。違う場所から違う場所に覚醒した時。体が思うように動かなくて、ちっちゃすぎてイライラした。言葉が、考えが、記憶が無数に散らばるのだけど、発する器官が機能しないもどかしさ。今でも油断していると頭の隅で蘇る。トラックにはねられて死にそうになったときも、盲腸が腹膜炎を起こして、「あと10分遅かったら・・・」って言われた時も、その時程の恐怖は感じなかった。
読んだ本に、人間は死を恐れているのではない。死に至る過程を恐れているのだ。と書いてあった。上手い事を言うもんだと思った。眠りに付くときより朝覚醒する時の方が不快なのはきっとそのせいだと。考える事だ。現実を自分で認識して手に入れる欲求があるのなら、考えるべきだ。全て自分で。右に行くのか左に行くのか。単純な事でも何でも、考える癖を付ける事だと思う。その認識の積み重ねが現実になる。もちろんそれが自分だけの現実でもかまわない。所詮、他人と共有出来る真実とか現実なんてひとつもないのだから。受け皿が違えば、発信元が違えば、同じらしく見える事象でも、すでに違う。自分らしく生きると言う事は自分の声と思考に耳を傾けて、探して探して見つからなくても探して。
他人の影響が思考の妨げになりそうな時は、何も語らず静かにその場を立ち去る事だ。結果を予測して考える事が必要な時とその必要がない時がある。仕事や社会や他人が関わらざる終えない時は最短で最大の結果らしき物を導く才能も必要だ。生きる術。でも、行き着く先の事や自分がそれらしく生きる為には、それは必要ない。<人生の結果>何て、明日もあさっても50年後も対して変わらないし、解るはずもないから。私は恥ずかしいという感じをあまり感じた事がない。何をしても結構平気だ。っていうか普通だ。ただ、他人が私を見たとき恥ずかしく感じる事があるのかもしれない。そういう表情を見る事は多い。本人にはよく解ってない。その時そうしたかったから、そう言いたかったからそうしてるだけだから。だから、いつも本来の自分を客観的に見て楽しむ事ができれば、カーテンコールまで楽しく生きれそう。なにぶん、周りの人の愛情が深いんだろうな。
